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曼珠沙華腰巻の美術世界
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読売新聞記事2007年11月1日朝刊
2007年11月1日
読売新聞
美術
「あぶり出された無意識」
 無意識を暴かれた時の恥ずかさや後ろめたさと、じわーっと胸に迫る懐かしさ。内藤修子のインスタレーションを見る度に喚起される感情はそのようなものだ。
 私たちの暮らしはあらゆる場面にわたって西洋化されてしまった。
「西洋かぶれ」という言葉は、それが批判であるにしろ、自嘲であるにしろ、もやは時代錯誤の評語でしかありえない。だが、私たちの感じ方、考え方の根っこにあるものは、表面的な生活のスタイルがそうであるほどには洋風になじんでいないのではないか。私たちの意識を一皮むけば、どんなおどろおどろしい土俗の光景がそこに出現するものか、わかったものではない。
 内藤修子の作品は、その一皮むけた無意識の世界をあぶり出す。
あぶり出すための道具は、例によって日の丸の旗と、戦前世代の女性たちが愛用した赤い腰巻きである。
 日の丸と腰巻きをそれぞれに横につないだ幕で、画廊の空間が十字に区切られている。幕と幕の間の狭い通路のようなスペースに、古い女性の着物の布(きれ)で作ったてるてる坊主やお盆の精霊流しに使う造花などが置かれ、壁には郷愁を誘う昭和の感覚をあれこれと取り集め写真のコラージュがはってある。
 腰巻きやてるてる坊主やコラージュなどが、家父長性下での女性の忍従や戦争の惨禍、そにような時代にあっても変わらず繰り広げられていたはず人間らしい喜怒哀楽の劇、つまりは基層民の情念の象徴あるとすれば、日の丸は、基層民の情念をナショナリズムに回収し、戦争へと動員していった国家の象徴でもあるだろう。
 いかにも暗く、古めかしくはあるが、どこか華やいでいるようでもあるこの光景を、私たちがすでに克服済みの後進日本の貧しさとだけ見てよいかどうか。作家も単に否定すべきものとして提示しているのではなさそうだ。日本文化の基底に対する批判と哀惜。そのアンビバレントなまなざしが、グローバリズムの荒波に翻弄される私たちに自省を促す力を作品に与えている。
4日まで。福岡市天神3の4の14アートスペース獏
                        (小林清人)



■2007年内藤修子展 ー毎日新聞記事掲載ー
毎日新聞(福岡)
2007年10月27日
「美術」
内藤修子展           
会場の空間を丸々使ったインスタレーション=写真。
「十字路ノ地獄坂 袖すりあうも他生の縁」副題が付く。
十字の交差する”道”に沿い、高さ約1,2メートルの布をカーテン状につるして四つのブースを作っている。天から眺めれば十字架の形が現れるはずだが、それは人間に確認不可能な視点。いわば、永遠に見えないクロスだ。
ーーーー年生まれ、長崎在住。作品には度々、悲惨な記憶が染み込む「日の丸」と、たくましい女性の象徴である「腰巻き」が登場する。今展では、手前の二つのブースが腰巻き、後方の二つは日の丸をイメージ。紅白の対比がなまめかしい。道に見立てた床には、母親の乳首を連想させるほ乳瓶の口が並び、一番奥の隅には地獄に似た骨とうの像や造花。
誕生から死まで、生の軌跡を投影する。壁を飾る張り紙は、古いアルバムや過去の芸術プロジェクトの模様などを写真をコラージュしたもの。「咲いて散るのが花」など、芝居がかった文字が躍る。否定、肯定の文脈を超え、作品に昭和の時代性をにじませている。それにしても、多様なテーマを込めたものだ。日の丸には戦争と平和、腰巻きにはフェミ二ズム、十字架は宗教弾圧。カトリック信徒の受難の歴史を持ち、原爆が投下された長崎の土地性も絡んでくる。それでいて、堅くるさや説教臭さないのは、懐かしくもあやしい空気が全体に立ち込めるせいだろう。11月4日まで。福岡中央区アートスペース貘  (渡辺亮一)
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